「できる!」ビジネスマンの雑学
2016年05月27日
[244]5月27日は日本海海戦のあった日

 今から110年余りの昔、1905年(明治38年)5月27日に、対馬沖で日本海軍連合艦隊とロシア海軍バルチック艦隊が激突しました。

 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

 テレビドラマにもなった『坂の上の雲』(司馬遼太郎:著)で知られる日本海海戦、海外では「ツシマ海戦(Battle of Tsushima)」と呼ぶ歴史的な海戦です。
 誰もがご存じの通り、この戦いは日本海軍の一方的勝利に終わり、日露戦争の終結へとつながりました。

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(聯合艦隊旗艦三笠(戊申海軍大演習記念写真帖:明治42年4月)
国立国会図書館デジタルコレクションより)


 ところで、私たちが見聞きする日本海海戦は、小説でも映画やテレビドラマにしても、日本側の視点で描いた作品がほとんどです。
 では、当時のロシア兵はどんな気持ちで戦ったのでしょうか。そのことを赤裸々に書き残した名著がロシア(当時はソビエト連邦)にあります。

「ツシマ バルチック艦隊遠征 上・下」
(ノビコフ・プリボイ:著 上脇進:訳 原書房:刊)

 著者のノビコフはバルチック艦隊の水兵としてこの戦いに参加し、辛くも助かり捕虜となりました。彼は熊本の収容所に入りますが、そこで戦友達から戦闘体験の聞き取りを行っています。そして自身の体験と合わせた戦争の記憶を「ツシマ」というドキュメンタリー記録として残しました。発表は海戦の28年後の1933年です。

 この本でしばしば登場するのが、日本軍艦による待ち伏せ攻撃への恐怖です。ロシアを出港してすぐ、夜間の不明船を一斉に砲撃して沈めます。北海に日本の艦船がいるはずもなく、結局、沈めた船はイギリスの漁船だったのですが、兵士達はそのくらい怯えていたのです。

 また、スエズ運河を通れたのは艦隊の一部だけで、大部分はアフリカ大陸を迂回して、喜望峰からマダガスカル海峡、インド洋、マラッカ海峡と不慣れな熱帯地域を航海せざるを得ませんでした。加えて当時は、港に立ち寄るごとに燃料の石炭の積み込み作業があり、汗を流しての重労働は、熱帯になれないロシア兵の健康をいちじるしく損ないました。
 当時のロシアは帝政のため、貴族と平民の格差は大きく、その階級制度は軍隊にも持ち込まれていました。重労働はいつも下級兵士。不満は統制の乱れとなっていきます。
 実弾訓練では、停止した目標艦に当てることも沈めることもできず、青ざめる士官とあきらめ顔の兵士達。

 ロシア海軍では、一日グラス一杯のウォッカを飲む権利が全兵士にあったそうです。そのため軍歴は、ウォッカを何杯飲んだかで語られることもしばしば。
 これが過酷な戦場の現実なのでしょう。ようやく実戦に臨みますが、日本軍の砲撃を受けて、壊れた樽から漏れるウォッカ・・・それをたらふく飲んでへべれけになるロシア兵の話が出てきます。こうしたエピソードが幾重にも重なり、もの悲しさを通り越して読む人の胸を打ちます。

 この本にはバルチック艦隊が苦労を重ねて日本海までたどり着いたこと、何のために戦うのか誰にもわからなかったこと、つのる望郷の念など、海戦に至るまでの長い旅路を強いられた生身の兵士の声が残されています。

 筆者がこの本を読んだのは数年前です。いま気付いたことは、異国の地の捕虜であった著者のノビコフが、収容所の中にありながら、捕虜同士の情報交換と記録が自由に行えたことです。外国人捕虜を丁重に扱った明治政府がなければ、この名著は誕生しなかったでしょう。

 なお、ツシマ海戦のあった5月27日を、日本海軍は後に海軍記念日としました。
「記念艦 三笠 公式サイト」

 ウォッカと共に日本海に没したロシア兵に合掌と乾杯を。(水)

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