「できる!」ビジネスマンの雑学
2018年11月16日
[615]日本マンガの聖地、東京・豊島区「トキワ荘」復元へ

 日本マンガの神様と言えばまぎれもなく手塚治虫ですが、では日本マンガの聖地はどこでしょうか。

 漫画家が多く住む吉祥寺や高円寺、ガンダムで知られた杉並区、それともサザエさんの舞台となった世田谷区桜新町、ちびまるこちゃんが住む清水市(現在は静岡市)、・・・。数え上げるとキリがありませんが、どれも日本マンガという大きなスケールでくくるには無理があります。

 筆者の知るところでは、東京都豊島区のとある場所、正確には椎名町五丁目(当時)、もっと正しく言うと、36年前に取り壊された木造アパート「トキワ荘」が最有力のようです。

 区でも市でもなく、たった一軒の、しかも今では存在しない木造アパートがなぜ、日本マンガの聖地と言われるのでしょうか。

 長らく伝説の中だけで語られてきたトキワ荘ですが、その復元に向けて行政が動き出しました。

 豊島区はふるさと納税制度を使って「トキワ荘関連施設整備基金」への寄付を募っています。その金額は10月末で8000万円を目前(78,946,331円)に達しており、寄付金の集まりはいたって好調のようです。

「トキワ荘」復元へ寄付殺到 7000万円突破で目標額を3倍に上方修正 東京・豊島
 日本を代表する漫画家たちがかつて暮らした東京都豊島区南長崎のアパート「トキワ荘」の復元費用に充てる寄付が、全国から殺到している。区は平成32年3月の完成に向けて、今年2月から1億円を目標に寄付を募ったが、予想を上回るペースで協力が集まり、10月中旬には目標の7割を超える約7451万円に到達。このため、区は目標を整備費用9億4千万円の約3割に当たる、当初の3倍近い2億8千万円に改めた。
産経ニュース 2018年11月8日掲出)

 アパートに9億4千万円の整備費を用意するとは、尋常ではありませんね。いったいトキワ荘とはどんなアパートだったのでしょう。

 トキワ荘については、藤子不二雄(A)さんが駆け出しの漫画家だった頃の思い出で語っています。

レジェンドが語った「まんが道」
  「怪物くん」や「笑ゥせぇるすまん」など、多彩なキャラクターで多くの人を魅了してきた藤子不二雄(A)さん(84)。その集大成とも言える展覧会が、東京・六本木で開かれている。これに合わせて、1時間を超えるインタビューが実現。トキワ荘での思い出から、今も尽きない創作への思いまで、漫画界のレジェンドが語ったこととは。(科学文化部記者 岩田宗太郎)
NHK NEWS WEB 2018年11月7日掲出)

 このインタビューの中で、トキワ荘に入りたくてもお金がなかった藤子不二雄たちに、手塚は粋な対応で入居を後押しした話が出てきます。

 藤子不二雄の二人[藤子不二雄(A)、藤子・F・不二雄]はトキワ荘に住む気持ちはありましたが、彼らは当時二十歳そこそこ。志はあれどマンガの仕事はなく、入居に必要な敷金を用意するあてもなかったのです。その金額は当時のお金で三万円。

 ちょうどトキワ荘を離れるタイミングだった手塚は、自分の敷金を置いていくことで、藤子不二雄たちの敷金に充ててくれたのです。

 1954年(昭和29年)の三万円とはどのくらいの価値でしょうか。調べてみると、当時の大卒初任給が5000円程度ですから、約半年分の給料に相当する金額です。そんな大金をさりげなく残して去って行く手塚は、藤子不二雄の二人にとてもまぶしく映ったことでしょう。

 トキワ荘にはこのほかにも、寺田ヒロオ、水野英子、石ノ森章太郎ら、のちに有名となる漫画家が集まってきました。ギャグマンガの巨匠、赤塚不二夫もそのひとり。赤塚は自分の母親を呼び寄せて、仲間の食事まで作ってもらっていたそうですから、そのマザコンぶりは徹底しています。また、園山俊二、つげ義春、つのだじろうなどもトキワ荘をしばしば訪れていました。

 先にデビューした者は仕事のない隣人をアシスタントとして使い、生活を助け合いました。一緒にアイディアを出し合い、交代でペン入れして共作することもしばしば。マンガ誌編集者もトキワ荘にはデビュー前の漫画家の卵たちがくすぶっていることを知っていて、誌面に穴が開いた(原稿が間に合わない)時には、いきなりやってきて誰彼かまわず未発表原稿をはぎ取って持って帰ったとか。

 赤塚不二夫のデビューも、穴埋め原稿を依頼されたことがきっかけでした。

 八ページのギャグマンガに穴が開いた編集者があわててトキワ荘にやってきます。石森章太郎(当時)に相談すると、赤塚が描けるのではと白羽の矢。

 赤塚が構成を考え、石森がタイトルを決定。徹夜で描き上げた原稿は、すぐに印刷所に入りました。

 たった一晩で八ページの原稿が用意できる。トキワ荘とはそういう所だったのです。


 翌月、赤塚のもとに届いた月刊誌をめくると、一晩で描き上げた漫画「ナマちゃん」のタイトルの上に「新・連・載 爆笑漫画」の文字が。(『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』より一部引用)

 アシスタントや穴埋め要員だった赤塚不二夫が、連載を持つプロの漫画家になった瞬間でした。


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※『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(武居俊樹:著 文藝春秋)


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※「アジャパー!!」


 マンガという表現メディアを世界的レベルに引き上げたのは、間違いなくこのトキワ荘の住民たちでした。そんな若者が集ったトキワ荘は、まさに戦後マンガ界の梁山泊だったのですね。(水田享介)

※(注)藤子不二雄のAは○で囲みます
※漫画家諸先生方の敬称は略しました。気になる方は心の中でつけてください

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■関連リンク
マンガの原点「トキワ荘」トキワ荘とゆかりのマンガ家たち(豊島区 公式サイト内)

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