「できる!」ビジネスマンの雑学
2015年04月08日
[029]うまい店味な店-1 三田・ラーメン二郎の思い出

まだ東京タワーが昭和の輝きを失っていなかったあの頃、ラーメン二郎はただ一店舗、
慶応大学キャンパスに寄り添うように営業していた。

 慶応大学方向から降りて来た道と4車線道路が交わる三叉路の一角、使い道のなさそうな細長い三角地帯に古ぼけた木造の雑居店舗が目に入る。その角にあったのが黄色い看板の旧二郎本店だ。
 私が三田の会社に通い始めた昭和50年代後半、二郎に支店などなかったのでわざわざ二郎本店という人はいなかった。ご近所では二郎で通じた。
 いや、二郎と言う人も少なかった。あの角のラーメン屋と言えばわかる程度の、街なかによくあるラーメン屋のひとつでしかなかった、あの当時は。

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 午前11時半を過ぎると当然のように店の前に列ができる。L字に折れた赤いカウンターは14~15席ほどで、古びたサッシ戸の入口は2つあった。店の外にはいつも20~30人が並び、午後1~2時の売り切れ終了まで行列が途切れることはなかった。

 客は大学のそばということもあり、ほとんどが慶応の学生で占めていた。だからか、春休みや夏休みには行列が消えたり、あっても数人のこともあった。行列に参戦する時間のないサラリーマンは、この限られた時期にだけ二郎にありつくことができた。
 卒業シーズンともなると、通い詰めた大学生達から寄せ書きやペナントが加わり、殺風景なベニヤ貼りの壁に華を添えた。その年に送られたペナントはまだ脂で汚れておらず、ぴかぴかの輝きは4年間皆勤したことを誇るかのようであった。といっても応援部や剣道部など硬派なスポーツ部に限られ、間違っても華道部、女子テニス部はなかった。女性客はひとりもいなかったから至極当然であった。

 注文はいつも少し緊張した。マシマシとは何だろう、辛めとは何か。最初は常連とおぼしき客の言動を参考にスタンダードな小ラーメン単品から始めることにした。3ヶ月ほどしてからだろうか、その日の体調に合わせて野菜多め、全部入りなどの注文が通るようになったのは。おやじさんがちらりと視線をくれた瞬間、すかざず注文を出す。タイミングを誤ると無情にも後回しにされる。
 しかし一度オーダーさえ通れば、10~15分ほどで間違いなく注文通りのラーメンが目の前に現れた。並び始めて食べ終わるまでたっぷり一時間から一時間半はかかったから、10人以上並んでいたらあきらめるしかなかった。

 ラーメン鉢には茹でたキャベツともやしが盛られていて、これを食べないとその下にある麺を拝むことはできない。チャーシューは分厚く脂ぎっていて、野菜と交互に食べると肉野菜定食を思わせた。ようやく現れた麺はちぢれた太麺でとてもおいしかった。スープは食べ進むうちにどこかに消えていったが、気にはならなかった。食べ終わると汗と鼻水が出た。

 煮込まれている寸胴鍋はスープ鍋らしく、とつぜん水がジャーと継ぎ足されていたような記憶がある。その後はスープが薄くなるのかスープ辛めと言い足す客もいた。すり下ろしたニンニクがプラスチックケースにたっぷり入っていたが、学生のようにスプーンで2杯、3杯と入れる度胸はなかった。
 大盛りやダブルチャーシューを頼んだ記憶はない。20代半ばの食欲旺盛な時期でも食べきる自信がなかったからだ。チャーシューの煮えた脂とスープの蒸気、そして若者特有の浮わついた空気の中でひたすら麺をすすった。


 2年ほど三田の広告会社に勤めた後、フリーのコピーライターとして独立した。とある広告制作会社に机を置かせてもらい、市ヶ谷に通い始めた。コンピュータとゲーム、そしてバブル時代は目前だった。
 ある日ふと、ラーメン二郎は三田にしかないことに気付いたが、ラーメン一杯に一時間もかける余裕はもう自分にはなかった。ラーメン二郎と過ごした青春は終わろうとしていた。(水)

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ラーメン二郎本店
 JR田町駅京浜道路側改札を出て、右手に森永ビルを見ながらアルコープを抜けて直進すると、京浜道路を見下ろす歩道橋にたどり着く。その歩道橋を渡るとすぐに、左方向へとカーブを描く道路が目に入る。
 道なりにたどっていくといつしか昔ながらの商店街に入り、雑多な店舗を左右に見ながらゆるやかな坂を上がりきったところで4車線道路に出る。右手に東京タワー、慶応大学につづく坂道の正面に黄色い看板を目にすることになる。

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