「できる!」ビジネスマンの雑学
2024年04月08日
[879]4月7日は戦艦「大和」が沈んだ日でした。

 今では語られることも少なくなりましたが、4月7日といえば79年前のこの日、戦艦「大和」が沈んだ日でした。

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※1/10スケール「戦艦大和」(大和ミュージアムにて筆者撮影)

 83年前(1941年)に日本が始めた太平洋戦争は、陸軍と海軍が別々の指揮系統でしか機能せず、大局を見る目もなく、戦費を浪費し無謀な作戦を繰り返して大敗。国土を焼失させて敗戦を迎えました。

 明治維新以降、日本国民が営々と蓄積してきた国富はもとより、築き上げてきた市民社会をたった一度の戦争で消滅させた責任は誰にあるのでしょうか。

 開戦につながる軍事行動としては、日本陸軍が引き起こした無意味な仏印進駐(1940年9月/※資料1)があげられます。また、開戦の口火を切ったのは、日本海軍の真珠湾攻撃とフィリピン侵攻、英領マレー半島侵攻(日本陸軍)だったのはあまりにも有名です。

 当時の日本軍を構成する陸軍と海軍とは、陸軍省、海軍省という国家組織であり、その構成員は日本政府の公務員でした。つまり戦争を引き起こした責任者は当時の日本国および国家公務員という官僚組織だったといえるでしょう。

 この頃の日本国は国際政治からひとり距離を置き、国家の舵取りをしていた陸軍も海軍も、いわゆる「省益」優先で動いていました。

 さて、翻って戦艦大和です。大和とはどのような戦艦だったのか。そして、兵器としてどの程度の戦力があったのでしょうか。さしたる戦果もなく沈んだ戦艦だったため、その能力は未知数です。

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※「戦艦大和」の艦橋付近(大和ミュージアムにて筆者撮影)

 大和には姉妹艦として戦艦「武蔵」がありました。武蔵が就役した際、その性能テストについての考察が『歴史群像』最新号(2024年4月)に出ています。

 「実録 戦艦武蔵建造 艤装・公試・引渡し・・・海軍艤装員たちの2年間」(手塚正己)

 まず、主砲の一斉試射では、猛烈な爆圧が予想されていました。その結果は戦艦本体に驚くべき被害をもたらしました。
(カッコ内は筆者の感想です)

 ・艦橋窓は鉄蓋で覆い外は見えなくなる(戦闘も見ずに指揮する?)
 ・甲板のモルモットは風圧でほとんど圧死(機銃兵は主砲でなぎ倒し?)
 ・衝撃で電気配線が寸断、時計・電話の故障(通信なし明かりなしで戦闘?)
 ・砲の火炎で木製甲板が焼け焦げた(主砲の最大の被害者は武蔵?)

 戦闘中に必要な電話や電灯が壊れては、主砲を打つのもためらわれます。何より艦自身が焼け焦げるようでは設計そのものに問題はなかったのでしょうか。


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※そこにいたら危ないかも。「戦艦大和」(大和ミュージアムにて筆者撮影)

 世界最強の46センチ主砲でしたが、戦闘そのものにかかわる根本的な問題も見つかっていました。

 「主砲の弾幕がひどくて、試射の後は艦の上空視界が失われる」

 「敵航空機を主砲で撃つと空が弾幕で覆い尽くされる。目標に向けた攻撃はできなくなるだろう」

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※「三菱長崎造船所ドッグにある戦艦武蔵」(大和ミュージアムにて筆者撮影)

 この問題は、公試で主砲斉射した時に判明しましたが、だれもこのことを上に報告しなかったそうです。

 戦艦武蔵が完成した時は、すでに太平洋戦争は始まっていました。今更、主砲にダメ出しなど言うに言えなかったのでしょう。国益を捨てて省益に走ったとみられても仕方ありません。

 なお、戦闘が始まってわかったことですが、大和は5度傾くともう主砲も副砲も撃てず、高射砲も撃つのは難しかったそうです。

「傾斜は、しばらく5度ぐらいで持ちこたえていましたが、こうなると主砲はもちろん、副砲ももう撃てません。高角砲も、射撃困難・・・」
『あの戦艦「大和」から奇跡的に生きて帰った男が語った「沈没に至るまでの悲惨な様相」』 神立 尚紀 現代ビジネス 2024年4月7日)

 打つに打てない主砲を9門も持たされた史上最強の戦艦、大和と武蔵はこうして戦場に放たれたのでした。(水田享介)

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【参考資料】
※資料1
「日本陸軍の仏印駐留に係る諸問題」
立川京一(防衛研究所戦史研究センター戦史研究室長)
https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/201803/05.pdf

※資料2
神立 尚紀氏の連載(現代ビジネス)
https://gendai.media/list/author/naokikodachi

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