日本は今、空前のお城ブームです。各地に残るお城には大勢の観光客が押し寄せ、天守のてっぺんに登りお殿様気分を味わうのが大はやり。
そんな中、このたび歴史的大発見がありました。これまで謎に包まれていたある城の天守台図面が見つかったのです。
【歴史的発見】 駿府城の天守台を描いた"幻の絵図"
「家康が生きているときのもの」 山梨市の男性が大発見 山梨
徳川家康の居城として知られる駿府城の天守台を描いた絵図が県内で見つかりました。
山梨市の男性が所蔵していたもので、これまで詳細が分からなかった天守台の実態を知る貴重な史料として期待されます。
(YBS NEWS 2025年8月4日)![]()
「駿府城」は1610年に完成。6重7階の天守を持つ巨大城郭だったと当時の記録にありますが、その詳細は不明でした。
今でこそお城は観光施設ですが、江戸時代を通じて最高度の軍事機密で庶民が立ち入ることなどできず、侵入経路や城郭の配置などが公になることはありませんでした。
江戸時代の旅日記でも、名所旧跡を訪ね歩き事細かな記録はしてもお城や天守についての記述はほとんど見つかりません。
もしそうした記録が見つかれば、スパイとして捕縛されるのは常識だったからでしょう。
発見された図面は城郭完成後まもない構造を描いた貴重な絵図(写し:複写)と明らかになりました。
この当時、徳川家康は江戸の守りを固めるための軍事施設として駿府城を築いています。また、間近に迫る大阪城攻略を控えて(数年後には大坂冬の陣・夏の陣が勃発)、家康はどういう思いでこの絵図を眺めたのか、大変興味深いところです。
最近になって駿府城の実像に迫る発掘調査も行われており、図絵と照合することでさらなる発見も期待できそうです。
発掘調査の詳しい内容はこちら
駿府城跡・駿府城跡天守台発掘調査
慶長12(1607)年、家康は、輪郭式で石垣を廻らせた3重の堀を持ち、本丸の北西には5重(または6重)7階といわれる勇壮な天守を配置した城を全国の大名に命じて(天下普請)築城させました。
家康在城時の駿府の町は、江戸と共にいわば二元政治が行われていたため、政治、経済の中心地として大いに繁栄していました。
(静岡市・公式サイトより)
この絵図が山梨で見つかったことに筆者は注目しています。静岡県民は静岡側から見る富士山を「表富士」と呼び、目の前の駿河湾から豊かな海産物を得て生活しています。
その一方、山梨県民は目の前の富士山を心ならずも「裏富士」扱いされ、生活では海の幸を口にすることはありません。
山梨県民は武田家は信長・家康連合軍にやられたと信じています(歴史では信玄は病死)。信玄が長生きしていれば天下を統一して、今頃は日本の首都は甲府にあったはずとさえ思うふしも見られます。
家康が建てた駿府城の図絵が甲府で見つかったこと、所有者が山梨県民であることに、山梨の人々は胸のつかえがとれたことでしょう。
お隣同士の県ですから、これを機会に末永く仲良くして頂きたいですね。(水田享介)