東京都水道歴史館(東京都水道局)では来る10月25日(土)~11月3日(月・祝)までの期間、「遺された江戸上水の史跡をめぐる ~令和7年度 上水記展~」を開催します。
「上水記展」とは毎年開催されるイベントで、江戸時代の寛政3年(1791年)に編纂された『上水記』全10巻が一般公開されています。
今回は東京文化財ウィークにあわせ、玉川上水の羽村取水口(取水堰)を精密に描いた「玉川上水水元絵図」(「上水記」第2巻)を広げた状態で展示いたします。
東京都水道歴史館・公式サイト
https://www.suidorekishi.jp/
ところで「玉川上水」とは何のことか、わからない方も多いでしょう。
多摩川・羽村から引き込んだ飲み水を四谷まで流す(高低差を利用した自然流下方式)ために43キロも掘られた水路のことです。上水とは飲用水のこと。
玉川上水が作られたのは370年ほど前の徳川家光の時代、寛永13年(1654年)ですから牛馬の利用はあったとしても、ほぼ人力で掘るしかなかったことでしょう。
この時代は参勤交代制度が整い、江戸市中の人口は増加傾向にあり、飲用水の不足は深刻でした。それをうけて開発された玉川上水はみごとに機能して、江戸の人口は100万人を超える世界最大の都市に育ちました。
この玉川上水は特権階級専用の上水ではなく、商人、町民など江戸の町中に利用されました。また、玉川上水が通る武蔵野台地にも広く分水が認められ、これまで農業に適さなかった地域では新田開発がさかんになりました。
玉川上水(たまがわじょうすい)の歴史
玉川上水は、当時(とうじ)の水道としては世界一(せかいいち)の規模(きぼ)で、幕末(ばくまつ)から明治初(はじ)めにかけて日本に来た外国人(がいこくじん)を驚(おどろ)かせたのが、奈良(なら)の大仏(だいぶつ)と玉川上水であった...。
(小平市公式サイト・こだいらキッズ)
https://www.city.kodaira.tokyo.jp/kids/017/017990.html
玉川上水の歴史
玉川上水は江戸市中の飲み水であるとともに、沿岸の各村々へも分水が認められました。上水完成の翌年に野火止用水への分水、ついで小川、砂川、国分寺分水などが開かれ江戸後期には分水の数は30を超えました。
(小平市公式サイト 2008年(平成20年)12月9日)
https://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/009/009353.html![]()
※玉川上水の流れ。梶野橋付近。(筆者撮影)
この玉川上水は明治になってもそのまま使い続けられ、近代水道として作られた淀橋浄水場にも原水を送り続けました。そして昭和38年(1963年)に東村山浄水場ができるまで都心にきれいな水を送り続けたのです。
江戸から東京まで、首都の風景は移り変わっても、絶えることなく飲用水を送り(贈り)続けた玉川上水を「令和7年度 上水記展」で再発見してみてはいかがでしょうか。(水田享介)