私のスキー人生でもっとも高揚していたのは高校生の時でした。スキー部に入ったものの、入った時期が夏だったので練習は校舎で。今思えば単調でも大切な練習だったのですが、その練習に辟易して幽霊部員になりました。ちゃっかり冬の合宿に参加するものの幽霊部員に居場はなくひっそり退部。その後も部員とはプライベートでスキー三昧の生活をしました。
当時はスキー人気のピークを少し超えたあたりだったか。それでも駐車するには第5駐車場などスキー場から離れた遠くに停めたり、スキー場のリフトは40分待ちなどざらにありました。板先を僅かな隙間に潜り込ませて少しでも早くリフトに乗ろう!と皆殺気立ってました。こういうこまごまとした苦労の末のゲレンデライフでした。スキー場の皆さんには申し訳ないのですが、ありがたいことに今は空いていてリフトを待つことはありません。当然、経営できなくなるスキー場も続出しました。結局、名門といわれるスキー場であっても設備、コースの距離と起伏に富んでないところは廃業していきました。人は勝手なもので廃業する際には「ぜひ続けてほしかった、残念です」といいます。「だったら普段から行かんかい!」と思っていたのですが当時の私の心がやさぐれているのか・・・。部員の会話はアルペンスキーかデモンストレーターの話しかなく、自分たちのチームをどうすればいいかなどの話はなかったように思います。まあ趣味の集まりだったということですかね。
ちょうどアルベルト・トンバというイタリアの選手が回転と大回転で連勝をしていた時でした。この通称爆弾男はちょっとしたスキャンダルなんかもあって、それはそれで「まったくイタリア人はよ~」なんて話に華を咲かせてくれたものでした。オーレ・クリスチャン・フルセット、マーク・ジラルデリなどの選手が上位にあって、日本人では木村公宣さんが強豪勢に対して健闘していたように思う。
スキーの板も奇抜な技術が満載でした。ソールの側面傾斜が45度!だから氷に食いつく!とか、エッジに切れ目があり、板がたわんだ際にもエッジが食い込む!など、いま考えれば直接影響がないようなものでした。まあバブル経済が崩壊したかどうかの時なので、まだお金もたくさんあったのでしょうね。自動車業界でも訳のわからない技術が大衆車にも満載で、タイヤハウス内にスピーカーを付けて、ラジアル騒音と同じ周波数の音で、音を消すとか・・・。いつの時代も何かの末期にはみなおかしなことをするのでしょうか。ナチスドイツも晩年は100トンを超す弩級戦車を作ったりして。最高の装甲板があっても、時速8キロしか出ない恰好の的の戦車に乗らされた兵士はたまったものではありません。(ああ、また話が脱線する、いつものクセです。はい。)
いまもスキーは続けていますが、自分にあったスタイルでゆったり楽しんでおります。基本は家族も連れずに一人でガンガン気兼ねなく滑るのが好きですが)^o^(
最後に、最近ですが「ソチへ行きたいな~。ああ、行きたい!」とふつふつと思い始めております。個人で行くのか、会社の旅行で行くのか、はたまた行けるような業績であるのか、金額はどれくらいになるのかなどなどいろいろと考えてます。しかしまずは行けるように努力をするのダーッ!![]()
※この暑い夏に涼しい画像のヤッコさんです。






